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韓国の儒教の殿堂
安東駅からバスで山中の蛇腹道を走ること40分、洛東川の畔に河回村と並んで安東の代表的な名所である「陶山書院」があります。
陶山書院は、退渓李滉(1501-1570)の学問と徳行を称え、追悼するために1574年に建てられたもので、建築物は李滉が生前に弟子たちに講学を行った書堂と、李滉没後に、儒学の研究と李滉の位牌を祀るために建立された書院の大きく二つに区分されています。
書院の簡潔質素な造りは、退渓李滉の人格と学問に徹するソンビ(学者)の姿勢を反映しているそうです。
「陶山書堂」を建立した退渓李滉について
退渓李滉は、朝鮮王朝を代表する朱子学者で、李珥(李栗谷)とともに16世紀の二大儒学者として称えられ、日本でも林羅山・山崎闇斎などの朱子学者に大きな影響を与えたと言います。
韓国の1,000ウォン紙幣にも肖像画が用いられています。
李滉は、慶尚道安東の出身で、科挙に合格した後、中央や地方の官僚として活躍しました。朝鮮時代の最高学府である成均館の最高職位(正3品)を数回歴任しますが、1560年に故郷である安東で隠棲し、陶山書院を開き、以降は儒学の研究および後進の育成に力を注いだと言われています。
陶山書院の成り立ち
陶山書院は、李滉が生前に自身の研究と人材育成のために建てた「陶山書堂」と、李滉の没後、後学者たちがその学徳を称えるために建てた祠堂を含めて、「陶山書院」と言います。
1561年に建立された「陶山書堂」は、李滉自ら設計し、講学を行った陶山書堂と、儒学生の寄宿舎として使われた隴雲精舎、書院を管理する守護人の宿所である下庫直舎のみ建てられました。
1572年に陶山書堂の後部に、李滉の位牌を祭る尚徳祠、典教堂、東・西齋が建てられ、1575年に、韓錫俸が書いた「陶山書院」の扁額が典教堂に掛けられ、王から扁額を賜った賜額書院として朝鮮の儒教の興隆のさきがけとなりました。
書院の配置形態は、教育施設が手前にあり、祭祀施設が後ろにある典型的な「前学後廟」の構成で、後世の多くの書院が陶山書院の構造を見本にしたと言います。
陶山書院の中を散策
バスを降りて、チケットを購入後、売り場の脇道から陶山書院まで約5分ほど歩きます。
チケット売り場から陶山書院の内部まで、端正に整えられた生垣の道が100mほど続いています。
垣根の向こうは、洛東川が見え、真っ直ぐ伸びた松の木との調和が美しく、心が穏やかになれる場所です。
陶山書院の向かい、洛東川の対岸には古墳のように盛り上がった場所がありますが、これは試士壇と言って、1792年に正祖大王の命により、退渓李滉の学徳を称え、儒学者の士気を高めるため行われた特別試験を記念し1796年に建立されたもので、この時の受験者は7000人、合格者は11名だったと言います。
1974年の安東ダム建設の際に10メートルの堤防を造り、頂上に碑閣を移動させ今の形になりました。
霊芝山を背後に、洛東川を見下ろ形で、陶山書院は建っています。入口の階段を上った所に、退渓李滉が建てた陶山書堂があります。
陶山書堂
陶山書堂は、李滉が4年掛けて建てた建物で、自ら住み込みで弟子たちを教えた場所です。
住居空間を「玩楽齋」と言い、板の間の空間を「巌栖軒」と言います。
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陶山書院の前には蓮が生けられた正方形の池があります。李滉は、泥の中にありながら汚れの無い花を咲かせ、真っ直ぐ茎を伸ばし、澄んだ香りをさせる花の“君子”と喩えられる蓮にちなんで池を「浄友塘」と名付けました。
弟子たちの宿所、亦楽書齋・隴雲精舎
亦楽書齋
陶山書堂と同時期に建てられたもので、弟子たちの宿所として使用された建物です。
扁額の字は李滉の直筆とのこと。
隴雲精舎
弟子たちの寮として使われた建物で、李滉が直接設計したと言います。弟子達が自立的に勉学に専念するよう願いを込め、韓国語の「工夫(=勉強の意味)」の「工」の漢字の形に建築されました。
下庫直舎
陶山書堂と祝h祖、西齋、付属施設を管理して食事の準備のために建てられた建物で、奴婢たちが居住した空間です。
光明室
本を保管した書庫として、扁額は李滉の直筆です。東西の2つに分けられており、湿気を防ぐために高床式で造られています。光明の意味には、「多くの書物が瑞光を照らしてくれる」という意味が込められています。
進道門
光明室のちょうど間に階段があり、その先に「進道門」と書かれた門があります。
陶山書堂と典教堂の間に建てられ、書堂領域と書院領域を区分しています。