トラベルノートページへ戻る

基本紹介編集履歴

7/17

中国とポルトガルの文化を融合した類いまれない異文化共生の地

 

約450年の長きにわたり、中国とポルトガルの両国民が相互の生活様式や価値観を認め合い、文化を共有・融合してきたマカオ。

世界でも類いまれないこの異文化共生の地の誕生は、16世紀半ばにポルトガル人がマカオに居住を始めたことからスタートしました。

 

また、ヨーロッパの宣教師たちが布教活動の拠点としても発展していったマカオ。

世界遺産登録されている歴史的建造物に教会が多いのはその証となっています。

 

時代

内容

紀元前3世紀

秦の始皇帝の地図に、「濠鏡澳」として登場する。

16世紀までは、のどかな半農半漁の小村落でしかなかった。

王朝時代

(1368年~1644年)

ポルトガル人がアジアに進出することにより、マカオの運命が急転!

1498年、バスコダガマのインド航路発見。

1510年インドのゴア、1511年マラッカを占領。

1513年には、ジョルジェアルヴァレスの船が広東に到達し、30年後に両国はマカオで貿易を開始。

1557年、ポルトガルはマカオの居住権を取得し、ヨーロッパ人初の中国入りをはたした。同じころ、フランシスコザビエルもアジアで布教を始め、明や日本、ヨーロッパの中継貿易港、キリスト教布教活動の拠点として栄えた。

ポルトガル植民地時代

イギリスがアヘン戦争に勝ち、香港を獲得するとそれに便乗してマカオの自由港宣言をした。

1849年、タイパとコロアネを占領。

1887年、「中葡友好通商条約」を結び、マカオを割譲。

1961年、ポルトガルの海外県として観光区に指定され、公認カジノ建設が始まる。

1966年、ポルトガル人優遇社会への不満からデモが起こり(12.3事件)、中国の協力で事態を収拾。以後、中国の影響力が増大した。

1974年、カーネーション革命後、ポルトガル新政権は植民地主義を放棄し、マカオには立法會が建設され、自治が進んだ。

中国返還から今日まで

1987年、「中国ポルトガル共同声明」を締結し、1999年までポルトガルがマカオの統治責任を持つことを確認。

1999年12月22日、マカオは中国に返還され、中華人民共和国マカオ特別行政区となった。

今日

返還後、一時悪化していた治安も回復。

2005年には22の歴史的建築物と8つの広場がユネスコ世界遺産に登録。カジノ専営権は海外企業にも開放され、カジノやリゾート開発が進み、再びマカオへの注目が集まっている。

 

【マカオの歴史に触れられる名所】

林則徐記念館(澳門林則徐紀念館)

アヘン戦争に対抗した中国の役人・林則徐の記念館。

この頃の貴重な資料などが保管されています。

 

時間:9:00-17:00 / 月曜休館

料金:5パタカ

 

【マカオの世界遺産】

 

媽閣廟

1488年創建。マカオ地名の由来にもなったマカオ最古の中国寺院。

正門、中国式鳥居と4つのお堂から成り、1つのお寺に異なる神々を祀っていることから

多様な新興に支えられた中国文化の代表例とされています。

http://www.utravelnote.com/macau/see/magok

 

 

港務局大楼

1874年、ヨーロッパ列強国が中国の植民地化政策を進めていた時代に、ポルトガルがマカオの治安維持のためインド・ゴアから派遣した、ムーア人兵士の寄宿舎として建てられました。

マカオでは珍しいイスラム様式の建物です。

現在も、マカオ港務局事務所、海上警察本部として使われています。

http://www.utravelnote.com/macau/see/moorish-barracks

 

 

リラウ広場

マカオに居住し始めたポルトガル人に貴重な水を提供してきた場所。

現在は昔の面影はありませんが、広場右奥にある壁の2つの口からは水が流れ続けています。

http://www.utravelnote.com/macau/see/lilau

 

 

 

 

鄭家屋敷

中国近代初期の維新派を代表する資産家で、孫文や毛沢東に影響を与えた鄭観應。

その父親によって1881年に建てられた屋敷跡です。

港務局から続く通りに沿って120mもの奥行をもつ堂々たる邸宅。

中国の伝統家屋でありながら、インドや西洋のデザインを取り入れた建築や装飾が特徴です。

 

 

タイトル

内容を入力して下さい。

最近見た記事
一覧見る