中国の歴史

古くから文明が発達した中国の歴史

 

 

中国の長い長い歴史をまとめてみました。

歴史が始まる前から近代まで中国は多くの変化を遂げて今があります。

歴史を知ると、中国旅行がもっと楽しくなりそうですね!

旅行に行かれる前に、歴史をもう一度復習してみましょう。

 

 

 

 

 

時代

内容

史前時代

1929年12月2日、中国の考古学者により竜骨山で発見された化石が「北京原人」であった。

周口店・北京原人遺跡は1987年にユネスコ世界遺産に登録されている。

原始時代

中国文明は古くから発達しており、黄河文明と、長江文明に分けられる。

長江文明は黄河文明より古くから栄えていたとされ、黄河文明は畑作中心、長江文明は稲作中心であった。

その後、黄河文明が発達し中国の歴史が進んでいく。

商朝(殷)

神権政治(占いによる政治)が行われていた時代。黄河文明の中で大きくなった村が発展したものと言われる。

河南省安陽市に、殷墟(いんきょ)という遺跡が残っており、殷王朝後期のものとされている。

確認されている王朝の中で、最後のもの。

周~

春秋戦国時代

紀元11世紀頃に周は殷王朝を滅ぼしたが、紀元前770年には弱体化して遷都し分裂状態になった。

その後、西周が滅びて、洛陽に東周が復活。西周が滅びた後に秦が入り、春秋戦国時代が始まる。

春秋戦国時代に勢力のあった秦(現在の陝西省)は周辺の強豪を滅ぼし、紀元前221年に中国を統一した。

中国最初の王、「始皇帝」が誕生しモンゴルの遊牧民族「匈奴」から身を守るために、「万里の長城」を建設した。

しかし紀元前210年に始皇帝の死亡とともに反乱が起き、紀元前206年に秦は滅亡した。

漢~後漢

劉邦と項羽の抗争の末、劉邦が漢の皇帝に就任した。秦の衰退から学び、各地に王を設置して管理した。

しかし王莽が皇帝の座を奪い、理想主義の政治で反乱が起こり漢王朝を復活させる動きが高まった。

そして劉秀によって後漢という形で漢王朝を復活させたのが「後漢」と呼ばれる王朝。

後漢

 

農民の反乱、黄巾の乱が起こり後漢が分裂。

その後、魏(曹丕)・呉(孫権)・蜀(劉備)と、それぞれの国を建国し、三国時代に入る。

晋が建国されるまで、中国は分裂を繰り返す時代に入る。

魏晋南北朝

江南を中心とする南晋は貴族の力が強くなり、北は北魏が華北を統一し、均田制を始めるなど政策を始めた。

北魏はさらに東西に分裂したが、隋が政治をおこなうようになった。

能力試験により官僚を決める「科挙」制度が始まったのはこの時代。

隋の文帝は、中央集権を目指した。2代目の皇帝「煬帝」が610年に杭州と北京を結ぶ運河を作ったが、

民衆に不満がたまり、618年に農民による反乱で滅亡した。

隋が滅亡した後、唐が中国を支配した。

唐の時代には、シルクロードが発達し、それと共に様々な宗教が流入した。

中国史上唯一の女帝、武則天が登場したのもこの時代。

907年に節度使(周辺地域を統治するための軍人)である朱全忠により唐が滅ぼされた。

五代十国時代

唐が滅ぼされてからしばらく、節度使が王を名乗り地方政権同士の争いが続いた。

この後、趙匡胤により960年に建国した宋が中国を統一したのは死後の976年。

宋・遼・金

宋は文治主義で政治を行い、朱子学が生まれたのはこの時代。

ただし、文官が軍隊の統制をおこなっていたため、軍事力は弱い時代だった。

1127には金からの圧迫で宋は江南に移った。これを南宋という。(江南に移る前の宋は北宋と呼ぶ。)

モンゴルが力を持った時代。チンギス・カンの時代に広大なモンゴル帝国を作った。

クビライが5代目モンゴル帝国の君主に即位し、1271年にクビライは元という名前で中国支配を進めていった。

シルクロードが発達し経済都市として栄えた杭州にマルコポーロが杭州を訪れ

「世界一反映し、世界一豊かな都市」と言っている。

また、モンゴル帝国は1234年に金、1279年に南宋を滅ぼしている。

モンゴル帝国は遊牧民の政治的仕組みを取り入れた。この時代に元曲というすぐれた文学が曲が生まれている。

しかし宮廷費用の浪費などにより庶民の生活が苦しくなり、反乱が発生。

明が出現し、元王朝はモンゴルへ逃げた。(北元)そのあとも争いは続いた。

紫禁城が北京に建設されたのは、この時代。貨幣として銀が使われるようになり、銀による徴税なども行った。

しかし皇帝による軍事費用や贅沢が税金として庶民の負担になり反乱が起きた。

1644年、李自成が明を滅ぼした。

17世紀初めに東北地方でヌルハチが満州族を統一し、その後を継いだホンタイジが1636年に国を「清」とした。

この時代、イギリスと中国の貿易が盛んにおこなわれていたが、中国が必要な物品は少なく、

安い中国のお茶などがイギリスの庶民層に人気があった。

そのためイギリスの貿易赤字が続き、イギリスが手を打ったのがアヘンの輸出。

アヘンを輸出し始めたことによりイギリスの貿易は黒字になったが中国ではアヘン依存者が増え、

清は取り締まりを始めた。そこで怒ったイギリスが起こしたのがアヘン戦争。

アヘン戦争で中国は負け、日清戦争でも日本に負けたため各国の植民地化が進んだ。

近代

清国の消滅により、チベット・モンゴル・東トルキスタンが独立を主張。

袁世凱が大総統となり、外国から資金を調達し軍事に力をいれ、経済政策を行ったが植民地化が進んだ。

1912年に南京にて孫文が率いる中華民国政府が設立。

1921年には上海で中国共産党が成立。

1928年には蒋介石率いる国民革命軍が南京にて「国民政府」を建てた。

1940年には反蒋介石の「南京国民政府」を作ったが、敗戦まで日本に支配された。

1966年に毛沢東が紅衛兵を組織して、中国全土で旧体制批判が行われ経済が衰退した。

毛沢東の死後、文化革命は終了し、鄧小平による改革で経済が回復していった。

2008年 北京オリンピックが行われた。

 

中国の歴史に触れられる名所】

 

 

 

〈北京〉

故宮 (紫禁城)

かつて紫禁城と呼ばれた故宮。明、清の歴代皇帝が生活した場所だ。1421年にその原型が完成した。現在は故宮博物院として、公開されている。北京と台湾を合わせると約160万点もの貴重文物が現存するという。1987年には世界遺産にも登録されている。

 

 

〈北京〉

万里の長城

2500年もの歳月をかけて築かれた、全長約9000㎞にもなる万里の長城。1987年に世界遺産にも登録された誰もが知る中国の名所。

 

 

〈北京〉

天安門

1949年10月1日、毛沢東主席が中華人民共和国の建国宣言をした、中国の象徴とも言える場所。1417年明の永楽帝に承天門と建てられた城門だ。その後、焼失し、1651年に現在の規模に増築された。

 

 

〈北京〉

天壇公園

明清皇帝の時代祭壇として使われていた建物。この円型フォルムや階段・柱の数など全てが陰陽思考に基づいて作られているらしい。建立は1400年代。天壇 という名前に相応しく、とても見晴らしが良かった。脇にある資料館に入ってみる。展示内容よりも、内装の美しさに気をとられてしまう。

 

 

〈北京〉

周口店・北京原人遺跡

1987年にユネスコに登録された北京原人が発掘された場所。

約25万年前から40万年前に住んだとされる骨が見つかった場所だが、

現在は紛失しており見つかっていない。

 

〈北京〉

中国国家博物館

中国北京市にある天安門広場東側の国立博物館2003年以前は「中国歴史博物館」と「中国革命博物館」という別の博物館に分かれていたが、2003年に合併・改組され国家博物館となった。その後2007年3月から2010年末にかけて長期閉館し、大規模な改築・拡張工事がおこなわれ、2011年3月にリニューアルオープンした。中国各地で出土・収集された国宝級の文物を、原始から清代まで通史的に一堂に会した、中国という国の悠久の歴史を知る最高の博物館。まさに国家の威信をかけた博物館といっていい。

 

 

〈上海〉

魯迅記念館

中国の革命的文学者として知られる「魯迅記念館」。こちらは1951年につくられ、1956年に現在の魯迅公園内に移設されたそう。55歳で夭折(ようせつ)した稀代の作家であり、思想家でもある、魯迅。本名は周樹人。ペンネームの魯は母親の姓だ。浙江省紹興市出身。代表作に「阿Q正伝」「狂人日記」「吶喊」などがある。

 

 

〈上海

豫園

豫園」は、明代に造られた由緒正しいもので上海観光と言えばここは外せないというくらい有名なところ。その意味は楽しい園で、もとは四川の役人であった潘允端が父親のやめに作った庭園であった。その後地元上海の有力者たちによって再建され、現在にいたる。

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記事最終修正日時: 
2013.03.07 07:58
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