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基本紹介編集履歴

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ベトナムの歴史とは、まさに今でも傷跡が残る被征服の歴史

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  内容
先史文化

・ベトナム最古の遺跡:およそ30万年前の旧石器時代の遺跡(原人の歯)が北部ベトナムのタインホア省で発見されている。

・紀元前1万年~前5000年の間のホアビン文化と呼ばれる頃には、現在と同じような気候・地理的環境になっていたとされる。集団で定住するようになり、人口も増え、同じ血統の人々が一緒に生活し社会が構成されるようになった。

・国として統治された形態の歴史が出現するのは紀元前2880年ころの雄王(フンヴォン)の文朗国が最初。

・秦は始皇帝の死後ベトナムへの支配力が弱まりつつあった。末期に南越国を建国し、紀元前208年甌雒を征服したが、秦を継いで中国の統一王朝となった漢の支配下に入り、それに伴ってその後の約1000年、中国の支配を受けることとなった。

北属期

漢から唐までの中国王朝支配期(前111年~938年)

中国支配期間には、姉妹の反乱」「趙嫗の反乱」「李賁の反乱」「馮興の反乱」と4つの大きな反乱が起こった。

しかし、数年しか持続できなかったため、中国支配が続いていた。

独立王朝時代

907年に唐が滅び、広州に地方勢力の南漢国が成立。この南漢に支配されていたベトナムだが、938年呉権(ゴークエン)が南漢の軍を破り、939年自ら王となり、長い中国支配からベトナムを開放した。

呉朝滅亡後、丁朝、前黎朝と続くが、短命の王朝が続いた。

李朝 1009年に李公蘊によって李朝大越国が建てられ、ベトナムにおける初めての長期的な統一政権が成立した。都はハノイに定められた。1070年には文廟(孔子廟)を建立。1075年に科挙制度を導入。
陳朝

陳氏によって李朝は滅ぼされ、陳朝大越国が成立した。13世紀後半にはモンゴルの侵攻を受けるが、陳興道らの活躍によって撃退した。陳朝の時代には、固有の民族文字としてのチュノムが作られ中国漢字から独立。また、史書『大越史記』の編纂も行われた。農業・商業が発達し、貨幣経済が浸透し始めた。

陳朝は1400年、黎氏に政権を奪われ滅んでしまう。その時に陳朝を支持していた人々は黎氏(胡氏)に逆らい内乱状態となった。機を見計らっていた中国(明)が進入し、胡氏王朝を滅ぼしてしまう。

黎朝

阮朝

 

ベトナムは1414~1428年まで明に服属していたが、黎利によって独立が回復された。ベトナム南部にまで勢力を拡大して繁栄したが、のちに北部の鄭氏政権と南部の阮氏政権(広南王国)へと分裂してしまう。南北は約200年にわたり対立した。

1717年、南部の阮氏の末期に西山の3兄弟が圧制・物価高騰の不満から蜂起し、中部・コーチシナを獲得。1777年に阮氏を追放。さらに北上して氏を討ち、1786年にハノイへ入り南北統一をしたが、その後一族の対立から阮一族の巻き返しを許してしまった。(西山党の乱)

フランス領インドシナ

ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約・1884年の甲申条約によりベトナムを保護国化。清朝はベトナムへの宗主権を主張したが、清仏戦争によりこれを撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。

1887年「フランス領インドシナ連邦」成立。ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で続いていた。

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